ジャキジャキと耳慣れない音が聞こえたので、そろり、顔をあげる。狭い視界に飛び込んできたのは他でもない千歳千里、かの人であり、わたしは少し身じろぎした。何?と視線で問うと奴はさらににっこにっこしてわたしを見る。またジャキジャキと不穏な音が聞こえた。



「何?」
、髪の毛切ろう」
「は?」

ジャキジャキ。連続的に響くその音。ひどく耳障りなそれは、千歳の手の中でせわしなく動く、銀色の大きなハサミから発せられたものらしい。おまけにそれはわたしの顔のすぐ脇にある。ジャキジャキ。危険です。人の顔に刃物を向けてはいけません。

「ごめんもう一回言って?」
、髪の毛、切ろう」

千歳はぐっと顔を近づけて、口角をさらに上げて、ゆっくりと口を動かした。
目をじっと見て単語ひとつひとつを区切って話すのは、わたしが彼の言うことを理解できていないと解釈する、それゆえの行動なのだろうか。違う。それは違う。確かに理解はできていないが、そういう意味ではない。

「ごめん意味がわからない」
、髪の毛、き」
「そうじゃなくて!そうじゃなくて…ていうかいきなりですね」
「ほら。俺が切っちゃるけん」
「えええお前が切るの?いきなりな上にお前が切るの?拒否権発動したいんですけど」
「安心しったい、俺上手じゃけん。たぶん」
「はい先生、なんか最後に要らないものがついています」
「やけん、髪の毛切ろう?な?」
「ちょっとそのハサミ危ないから!こっち向けないでよ!」
「はやくー」

ジャキン。刃が開く。ジャキン。刃が閉じる。はらり。

「ちょっおまっ今いっぽん切ったろ!髪の毛いっぽん切ったろ!!!」
、心せまかー」

けらけら笑う千歳には、わたしの気持ちなんか一生わからない。







授業中、休み時間、給食。その後も千歳はしつこかった。九州男児恐るべしとでも言うべきだろうか。ところかまわず奴はどこからかハサミを取り出し、ジャキジャキいわせてわたしに迫った。しかもそれだけでは飽き足りず、終いにはわたしの大事な髪の毛を何本か切りやがるという、この上ない暴挙に出た。千歳にとってはa fewでも、わたしにとってはa lot ofであることをこいつはいまいちわかっていない。

、髪の毛」
「切らない」
「髪の毛」
「切らない」
「ショートに」
「しない」
「なんで?」
「長いほうが楽だから。はねないし」
「ええー」
「ていうか君、部活中くらいハサミ持ち歩くのやめたまえよ」
が髪切らせてくれたら一件落着たい」
「じゃあはい千歳コレあげる。コレ切っていいから、ね?」
「ちょっコレって俺の頭なんやけどおおお!!」←謙也







そんなわけで、女心は単純明快である。単純すぎて涙が出るほど、実にわかりやすく浅はかだ。よく乙女心は繊細で複雑なものだといわれるのを聞くが、わたしの場合は至ってシンプルである。シンプルイズベスト。なんていい言葉だろう。ただひとつ留意して欲しいのは、あくまでもわたしの乙女心が単純なのであり、わたしが乙女ではないとかそういう選択肢はまるで存在しないということだ。

「はあ…」

現に今、わたしはこうして悩んでいる。桃色の(ような気がする)ため息すらついている。脳みそをぐるぐるとかき乱すのは言わずもがな千歳のあの野郎のことであり、若干腹立たしい感は否めないが、それでも、あいつの間の抜けた笑顔ばかりが脳裏を掠めるのである。

「なんでかなあ…」

ごうごうと凄まじい音を立てながら稼動する、部室裏のおんぼろ洗濯機に向かって語りかける。なにゆえ、千歳はあれほどまでに髪切れ髪切れとしつこいのだろう。もしかしてもしかすると、奴は髪の短い女の子が好みなのだろうか。だからなのだろうか。(それだったら髪を切るのも仕方がない、というかむしろ切りたいような…だってわたしは千歳のことが好っ…ゴフッ、いや、いやいやいや)


「ねえ財前くん、千歳って髪の長い子と短い子どっちが好きだと思う?」
「さあ」
「だいたい千歳の好みとか謎だよね。性格すらよくわかんないし」
「はあ」
「どうしよう…わたし切った方がいいのかなあ」
「うーん」
「ちなみに財前くんはどっち派?」
「別にどっちでも」
「わたし短いの似合うと思う?」
「どうでしょうね」
「ここは思いきって切ってみようかな…」
「ふーん」
「ね、どう思う?短いのいいと思う?」
「ええんちゃいますか(どうでも)」


鏡を見ながら考えた。考えながら、胸下まである毛先を指でいじった。
奴に髪を切らせるというのはさすがに不安要素が大きすぎるので、とりあえず却下。だがしかし、髪をちょっと短くするくらい、いいのかもしれない。だってこんなの初めてだ。
(それにしても財前くんはいつも無愛想で心配になる。社会に出て上手くやっていけるのだろうか?心配だなあ…)







というわけで、どきどきどきどき、異常に胸を高鳴らせて登校している現在に至る。昨日まで肩を覆い背中につたっていた黒い髪の毛はもう存在しない。我ながら思いきったことをしてしまったものだ、と思うが、あまり後悔はない。

さらに、切ってからひとつ気づいたこともある。千歳の好みのタイプ=髪短い子という図式を成立させるのは、とんでもないわたしのうぬぼれだということだ。だってそうだ、別に彼女でもなんでもないわたしに千歳が自分の好みの髪型を求めてくるだなんて、そんな都合のいいこと、あるわけがない。

でももうこの際、気にしないことにした。理由はわからないが、千歳の求めた散髪をこなしてきたわたしに、彼はどんな反応を示してくれるのだろうか。

「おはよう」

爆発しそうになる心臓をなんとかのみこんで、広い背中に声をかけた。







「おはよう」
「ん、おはよ…」
「………」
「え!?」
「(うわ)(おどろいてる…)」
「え!?え!?なんで!?」
「なんでって…千歳が切れっていったんでしょ…」
「え……」







そのときの千歳の顔を、わたしは一生忘れないと思う。
絶望した!!と言わんばかりの、悲しみに明け暮れた表情である。それどころか泣かれる勢いだった。

「俺が切りたかったのに…!」

短くなったわたしの髪の毛を執拗に撫でるその手にどきっとしつつ、片方の手に未だあの大きなハサミが握られているのを見て力が抜けた。

「なんで勝手に切りよるん!」
「え…」
「金曜ロードショー見なかったんね!?ラピュタ!」
「ラピュタ…」
「ムスカが銃バーン撃ってシータの髪の毛バッサリなったと!」
「シータ…」
「やけんドーラが切っちゃるんよ!ハサミで!」
「ドーラ…」
「俺もそれやりたかったんにー!!」

なんだか、無性に、泣きたい。







それでも、「でもよく似合っとるばい」なんて、にこり、千歳が笑うもんだから、なんかもうすべてがどうでもよくなってしまった。やっぱり乙女心はシンプルなのだ。あーあ。


だから恋い焦がれるのです