暗い廊下を照らすように、ぽつぽつと教室の明かりが漏れていた。わたしと同じ境遇の人がいることを期待しながら教室に向かって歩き出したけど、その期待はあっけなく裏切られた。7組からは残念ながら明かりが漏れていなかったのだ。

誰もいない真っ暗な教室。

想像すると少し恐怖心のようなものが湧いたけど、扉を開けると、そこは窓から月明かりが射し、廊下で暗闇に慣れた目にとっては十分な明るさだった。ここで暗闇に対する恐怖心はなくなったものの、教室の奥でうごめく黒い影に驚怖心を掻き立てられた。その影の正体を見極めようと目を凝らすと、「お前も忘れもん?」と声をかけられた。

 

「阿部かー!誰かと思ったよ〜」
「おー、わりい」
「阿部も忘れ物したんだ!」

 

黒い影が阿部だと分かりほっと安堵したのも束の間、今の状況を理解した瞬間、体中に緊張の糸が巻きついた。動くたびにギシギシと音を立てそうな体を解そうと他愛のない話を数分繰り広げた。

阿部は自分の机に、私は自分のイスの背もたれに腰を下ろしている時点で、私たちの距離はそれなりに近い。他愛のない話ももうそろそろ終わりを迎える。だけど、阿部とは一度も目は合わなかった。 私から左下に逸れたままの視線は何か悩みを抱えているように見えたから、「なんかあった?」と恐る恐る尋ねると、阿部は驚いた顔をして、それから参ったと言いたげに笑い、私の肩に頭を落とした。

 

「どどどどうした?!」
「人が悩んでんだ。普通肩ぐらい貸すだろ」
「ででも!肩って普通横に並んで借りたり貸したりするもんじゃ…」
「…うっせ」

 

挙動不審の私を横目に、どうやら本気で悩んでいる阿部は本気で私の肩に全頭重を預けてきた。今にも破裂しそうな心臓が半端のない音を立てて脈を打っていたけど、多分心底悩んでいる阿部には聞こえていないだろう。少しでも現状を理解してもらいたかったけど、どうも無理そうだと分かった。

 

「阿部の悩みってなに?」
「・・・・」
「肩貸してあげてるんだからそれぐらい教えてよ」
「・・・理解したい人のことが理解出来ねえ」
「理解、したい人?」
「おー。すげーわかってやりてえヤツ。でも全然わかんねー」

 

弱っている阿部は、いつもの阿部よりも数倍素直だった。だけど、その素直さが今の私には少し辛かった。阿部の「すごい理解したい人」は、今こうしている私では確実にないし、阿部にとって確実に特別な人だ。そういう人がいても当たり前なのかもしれない。阿部だって野球ばっかりしてるけど、男なんだ。私の中ではいつも男の人であったように、きっと「すごい理解したい人」の前では男であったのだろう。

 

「ねえ、阿部」
「んー」
「分かりたいなら、今やってることをその人にやりなよ」
「は?出来るわけねーし」
「なんで?あ、もしかしてその人もう彼氏いるの?」
「は?!いるわけねーし!」

 

バッと顔を上げた阿部の表情はまたしても驚いていて、それから今度はばかじゃねーのと言いたげに笑った。至近距離で今日初めて合った視線に、せっかく落ち着いてきた心臓がまたすごい速さで動き出した。

 

「彼氏、いないならいいじゃん。少なくとも阿部の思ってることは伝わるよ?」
「…そーだな。一応参考にはしとくよ」

 

阿部はニヤッという擬態語が似合いそうな笑みを浮かべ、それから荷物を持って廊下に向かった。阿部の背中はさっきまであった弱気を微塵も感じさせないくらい堂々としていて、そうさせたのは私だと思うと少し誇らしくなった。だけど、強気な阿部を弱気にさせてしまう誰かがいると思うとすごく悲しくなった。

 

「あ、一言言っとっけど、お前誤解してる」
「・・・え?」
「俺が理解したいのは男だから」
「・・・ええ?!ってことはつまりその、阿部って・・・」
「お前が今何を想像してるかはあえて聞かないけど、それもぜってー違う!」
「よ、よかった・・・!でも男って」
「投手だよ。バッテリー組むには一番理解しなきゃいけない相手」
「・・・あー、野球、ね」

 

やっぱり野球ばっかりだった阿部に、さっきまで感傷に浸っていた自分が恥ずかしくなった。だけどそんな阿部が、今まで以上に男の人に見えた。今まで以上に好きだと感じた。

 

「あと、」
「あと?」
「今日のこと、ぜってー誰にも言うなよ!マジで!」
「あー・・・、どうかな?」
「は?」

 

必死な阿部をちょっとからかうつもりで言っただけの言葉に、本気の目で返してくる阿部はやっぱり阿部だ。さっきの弱気の阿部はどこへいったのやら、今となっては幻想だったように思える。ならば使える弱みは今のうちに使っておかないと。

 

「じゃあ、おめでとうって言って?」
「はあ?」
「わたし今日誕生日なんだ。だから祝ってくれたらもう今日のことは絶対口外しません!」
「いや、誕生日なの知ってっし、祝ったじゃん」
「は?いつ?ていうか、知ってたの?!」
「おー。数学の時間に小テスト回収すっとき」
「ええ?!・・・あー、え?!あれってだって、」

 

数学の時間、確かに阿部は私に向かっておめでとうと言っていた。だけど私はてっきりテストの出来に対して言っているのだと思っていた。だって、あんな取って付けたような「おめでとう」が誕生日の「おめでとう」だと思うほうが難しい。不服そうな顔をしているのが分かったのか阿部は諦めたように溜め息をついて、そして私の目を見た。このまま、時間が止まってしまえばいい、と思わせるような強くて優しい阿部の視線。

 

、誕生日おめでとう」

 

これでチャラだかんな!と言い残して阿部は教室を出ていった。私はしばらくの間、阿部からもらった2度目の「おめでとう」を噛みしめ、それから急いで教室を出て校舎から校門まで一気に駆け抜けた。切れる息を整え、誰もいない道を自転車で走る阿部の背中に向かって叫んだ。

 

「あべー!ありがとー!」
「っうっせー!・・・気いつけて帰れよ!」
「うん、じゃーねー!」
「おー」


私は阿部の背中に向かってもう一度ありがとうと呟き、どの季節よりも月がきれいに輝く冬の空を仰いだ。明日からまたいつもと変わらない日々が待っている。だけど、そんな日々でも楽しみに思える程、今日という一日は一段と輝いていた。そんな特別過ぎた今日が、私の誕生日で本当によかった。すべてのものに感謝しながら、私は月に照らされた帰り道を静かに歩く。

こうして私の19年目は幕を開けた。

 

ジェット アンド ルナ

 

アッキー、誕生日おめでとう(ございました)!!!
アッキーの19年目に幸あれ☆ミ

旧すわ(2008.1.15)