「いったいどういうことなの」 下駄箱の前で呆然と立ち尽くすわたしの後ろを一瞬風が吹き抜けた。 「あ、じゃん。おはよ」 声を掛けられて気が付く。さっきの風はどうやら丸井君がわたしの後ろを駆け抜けたときのものだったらしい。下駄箱から各教室へとつながる廊下にテニスバックを肩にかけた丸井君がわたしのほうを見ていた。ぷぅ、と、黄緑色をしたチューインガムが丸井君の口元でふくらむ。人工的なグリーンアップルの香りが鼻を抜けた。 「何してんだぃ?」 「やられた」 「は?」 「柳」 「え?」 「やられた・・・」 「は?ヤられた?え?ちょ、え、お前らそういう関係だったとか俺聞いてねぇし」 「あいつ・・・」 「なんだなんだ、そういうことはさー、報告してくれたっていんじゃねーの?水くせーだろぃ?」 「ぶっころす」 「え!?」 いったいどういうことなの。 部活動に所属していないわたしが登校するのはいつも始業時間ギリギリだ。早く学校に着いたところで特にやることもないし学校までは割と時間がかかるし、何より朝は時間が許す限り眠っていたい。始業時間の5分前に登校していれば早い方だ。ちょうどその時間に鳴り響いているであろう予鈴の音を、最後にわたしが自席に着いて聞いたのはいつだっただろう。それすらもよく思い出せない。昔は電車が遅れたらどうしようとか、小テストがある日は少し早く登校しようだとか思ってそれなりにそれなりの時間に登校していたはずなのだけれど、この学校生活も3年目になるとどの程度の頻度で電車が遅れるだとかはだいたいわかるようになるし、そもそも少し遅れたところで先生からのお咎めなどたかが知れているし(むしろ風紀委員のほうが嫌味ったらしい)(でもそんな柳生くんがわたしは割と好きだったりする)、英単語など朝の数分で丸暗記したところでお昼休みを過ぎるころには覚えたはずの英単語どころか小テストがあったことすら忘れているのだからあまり意味をなさないということもわかっている。勉強というものは日々の積み重ねが一番大事なのだ。たとえば一週間かけて毎晩英単語5つずつくらい確実に覚えるようにするだとか、そういうことを普段からやっていれば朝の小テストなんて眠ってたって満点が取れる。と思う。わたしは毎晩の勉強も満点も経験がないのでよくわからない。ただ、そういうことをしていそうなやつならわたしは知っている。 「え、柳なにそれ、スリッパ」 いつもと同じく始業時間ぎりぎりに登校したわたしは自分の席に着いたとき隣の席に腰かける男子の足元を指差した。 その男子、柳は朝練をしていたのかほのかに制汗スプレーの香りを漂わせていた。せっけんの香りだ。よかった、フローラルとかじゃなくて。思いながら、教員用サンダルを履いて姿勢正しく椅子に腰かけた柳の姿はどこか滑稽だったので、わたしは指差して笑った。思いっきり笑ってやった。あはははははは柳なんで教員用のサンダルなんて履いてるの?え?どうしたの?洗っちゃったの?それとも隠されちゃったの?っていうか似合うね教員用。やっぱり柳は見た目老け・・・げふんげふん大人っぽいからそういうの似合うよね。上履きよりもずっと似合ってる。っていうか柳似合いすっ ・・・ぎてっあ、あははははははは ・・・という具合に笑ってやった。人に指をさしてはいけない。3本の指は自分をさしていることを忘れるな。そんな感じの言葉を聞いたことがあるけれどそんなことどうだっていいよってぐちゃぐちゃに丸めて握りつぶしてゴミ箱じゃなく直接焼却炉に放り込んでしまったわたしは臆面なく柳を指さして笑った。ああ楽しい。 昨日、こんなことがあったのだ。そのときの柳の反応をわたしは生憎よくおぼえていない。それはもちろん柳のことを笑うことで精一杯だったからだ。人を指さして笑うだなんて失礼なことをしてしまった、とほんの少しだけ後悔の念に駆られたものの、相手は柳だしまぁいいかで完結させてしまったので余計に。 授業中も柳を盗み見ては吹き出していた。どうしてサンダルひとつでこんなに笑えるのだろう。柳がしれっといつも通りのポーズだったせいもあるのかもしれない。背筋を伸ばして真面目に先生の授業を聞きながらすらすらときれいにノートを取る、いつもどおりそのものの柳の足元は教員用サンダル。板書されず、先生が口頭でだけ言っていた重要ポイントもすかさずノートに『重要ポイント!』って赤枠で囲ってなにやらその内容とかうんたらかんたら書いてるみたいだけど(文字が細かすぎて読めない)足元は教員用サンダル。 冷静になって考えてみると、もしかしたら笑える話ではないのかもしれない。実際にわたし以外に柳を笑っている子はいなかった。いや、でもわたしが登校する前にひとしきり笑われた後だったのかもしれない。そう思うとあのときの柳がやたらと大人しく理由とかいきさつとかどうでもいいような講釈を垂れなかったのもうなづける。柳にしてみれば災難だったかもしれない。まぁ、隠したのわたしなんだけど。 だからって。 これはいったいどういうことなの。 「ぶっころすってお前・・・まさか無理やり」 突然何やら心配そうな顔つきに変わった丸井くんは早足でわたしに近寄ると顔を覗き込む。 「俺でよけりゃ話くらい聞いてやるぜぃ?」 ぱちん、とチューインガムがはじけてふわ、と、グリーンアップルの香りが漂う。整った顔立ち。瞳は丸く大きくて、透明感のある肌、形の良い鼻、薄い唇、きれいな髪の赤。女の子みたい。丸井君は本当にかっこいいしかわいいなぁ、とぼんやり思っていると、「ん?なんだこれ」次の瞬間、丸井君が爆笑する声が下駄箱一帯に響き渡った。うるさいよりも、グリーンアップルくさいほうがわたしはずっと気になった。 「なんだこれ。何だこれ!何このピンクのふわもこ、生き物みてぇ!つかこれうさぎじゃね?うわ、え、すげーふわふわしてんだけど。履きてぇ。もこもこ感ハンパなくね?え、なに?今日からこれ校内歩くのかよ?うわ、ダッセ!はっず!」 わたしの下駄箱に入っていた、というよりもスペース的に突っ込まれていたと表現した方が正しいかもしれない。半ば無理やり突っ込まれていたのはピンク色のふわふわしたものだった。丸井君が取り出してくれたおかげでそれが女子力の高い女の子の部屋にごく自然にありそうなルームスリッパであることと、そのスリッパには二本の長い耳が生えているということと、正面から見ると透明色の赤いボタンがふたつ、その少し下に横長の黒いボタンがひとつ、あとはサイドに三本ずつワイヤーみたいなものが生えていることがわかった。うさぎだ。ピンク色のうさぎのふわもこルームスリッパだ。なにこれ。こんなものわたしの部屋にはないし、そもそもそういうものとは縁遠い部屋だし、いやそもそもここは学校だ。 「のスリッパこれしか入ってねーじゃん。ってことはやっぱお前今日っ・・・ぷぷぷ コレ履いて授業とか・・・ぶぁっはははあっは!やべぇ超うける」 わたしが怒りでわなわな震えている横で丸井君は人目も気にせず爆笑している。さっきまでのあの心配そうな顔つきはいったいどこへ消えてしまったのだろう。お腹を抱えて笑う丸井君はさっきからグリーンアップル臭を惜しげもなく漂わせている。このままだと制服がグリーンアップルの香りになってしまいそうだ。それもこれも柳のせいだ。今日もしれっとせっけんの香りを漂わせているであろう柳のせいだ。柳まじぶっころ、 「すげぇ、似合ってんじゃん」 丸井君はひとしきり笑いつくしたのか、ピンクのうさぎのふわもこスリッパを装着したわたしににっこりと笑顔を向けた。あんなに笑われた後だというのに、丸井君の笑顔に少しどきんと心臓が反応してしまったのは言うまでもない。ずるいひとだ。憎めないやつ、というのは丸井君のことを言うのだと思う。桑原くんはもしかしたらいつもこんな気持ちを感じているのかもしれないな。 そんなことを考えながら早足で教室に向かうのだけれど、その間すれ違う友達や他のクラスの知らない子の視線を感じたのは言うまでもない。聞こえる笑い声がすべて自分に向けられているようにすら感じた。下駄箱からそう遠くないはずの教室がひどく遠くに思える。当然だ、何せこのふわもこスリッパはひどく歩きづらい。足を持ち上げようとすると脱げてしまいそうになるので、いっそスケートでも滑るように進んだ方がリノリウムの床との相性は良いように感じた。それもこれも柳のせいだ。今日もやつはしれっとせっけんの香りを漂わせ一限目の授業で使う教科書とノートと資料集をすべて机の上に出して難しい小説でも開いているのだろう。柳まじぶっころ、 「・・・すいません」 やっとの思いで教室に到着して、さぁ柳はどこだ出てこいその小説取り上げて蓮二をレンジでチンしてやるぞ、と意気込んでいたのに、教室に一歩入るなりすぐ後ろから担任がわたしの足元を指さして怒るのでそれどころではなくなってしまった。いったいどういうつもりなんだ、と先生は言うけれど、それはわたしにもよくわからないんです、朝来たらこれになっていたんです、メタモルフォーゼしていたんです、としか答えられない。すでに登校していたほとんどのクラスメイトが一斉にわたしに注目して、うさぎのふわもこを見て笑っている。こんな失態は生まれて初めてだ。どうしてくれる。それもこれも柳のせいだ。やっぱりしれっとひとり着席して開いた小説に視線を落としている柳のせいだ。柳のせいだ。柳のせいだ。 早く席につけ、と先生に促されてわたしは柳の隣に着席する。憎むべき相手がすぐ隣にいるというのに、先生が授業を初めてしまったのでそれもかなわない。後で職員室にくるように、と言われてしまったのでこれ以上何か問題を起こすようなことは避けたかった。粉砕してしまいそうな力でぎりりと奥歯を噛み締めるくらいしか怒りを紛らわす方法は見つからなかった。柳という苦虫は噛み締めるとろくなことがないので、せっけんの香りが漂う隣をじっとりと睨みつけながら早く休み時間になれと心から念じ続けた。柳は今日も柳だった。だけど足元は今日も教員用サンダル。まだ自分のスリッパが見つかっていないのだろう。あたりまえだ、簡単にはみつからない場所に隠してやったのだから。そのくせいつもと変わらないポーズで授業を受けている。重要ポイントを赤く囲ってわかりやすく記述している。きれいな文字が整理整頓されてノートに収まっていた。きっとあのノートがあればどんなテストも楽勝なのだろう。そこにはきっとすべての答えが記されている。数学の公式も、英文の和訳も、古語の意味も。 だったら、わたしのことは? (・・・なにそれ) ふと浮かんだ疑問に自己嫌悪したのはいうまでもない。わたしのことなんて柳のノートに書いてあるわけない。わたしはテニスプレイヤーではないし、学校の授業でもないのだ。だからわたしのことなんて柳のノートに書いてあるわけない。わたしの嫌がることだとか、わたしの恥ずかしがることだとか、わたしの怒りの沸点だとか、 (わたしが柳にされたいこと、とか) そんなこと書いてあるわけが (でも、) ない。ない。ない。 (もしも柳に好きなひとがいたら、柳は) 柳のくせに。柳のくせに。柳のくせに。 (・・・ばかやろう) 職員室から教員用スリッパで帰ってきたわたしを柳は一瞥すると鼻で笑った。文字であらわすと「フ・・・」とか、そんな感じだと思う。だから余計にわたしは柳を奥歯で噛み潰したい気持ちになった。おまえ、潰すよ?っていう感じで赤く染めてやりたくなった。 「それ」 わなわなと怒りで震えるわたしとは対照的な柳がわたしの足元を指さすので怒りが一気に爆発しそうになってしまった。おまえのせいだ、と声を大にして言ってやろうと思ったのに、その前に柳が一言「お揃いだな」口角を少し上げるので、不覚にも怒りではなく心臓が爆発しそうになってしまった。 「嫌なら俺のスリッパを取りにいくといい」 「誰が返してやるかばか」 「フ・・・そうか」 意味深に柳が笑う。ああ、もう、柳のくせに。 *** 放課後、柳のスリッパの様子を確認しに体育倉庫奥の古いバスケットボールと跳び箱の間を覗いたらそこには柳のスリッパとわたしのスリッパが仲良く並んでいた。 |