「まあ予想はしてたけどの泣き顔ってなんていうか破滅的だね」
「破滅的とは」
「見るに耐えないくらい不細工」

視線を外すのはなんだか負けたようで悔しかったのでやみくもに手を伸ばしたけれど掴めたのはお皿に残っていた最後のたまご焼きただひとつで、それをこのまま奴の顔面めがけて投げようものならおばちゃんに八つ裂きにされるだけでなくその行為がたまご焼きへの忌まわしき冒涜だとみなされ私は今後一切たまご焼きを食べることを禁じられるかもしれない。

「そんなに酷いでしょうか」
「酷いね。例えて言うなら潰れたバッタ」

忍者あるいはくのいちにとって食事は単に生きるために必要な栄養を摂取する行為に過ぎず、故にたまご焼きを食べることが叶わないのならば目玉焼きを食べればいいしそれが嫌ならたまごかけご飯を食べればいい。しかれども私はまだまだ未熟なくのいちのたまご略してくのたまであり、日々の食事を心待ちにするどころかその行為に生きることの喜びすら見出してしまっているわけで、まあそれもそのはずこの学園の食事は馳走と呼べるほどの美味しさを誇っているからなのだけれど、中でもたまご焼きはそんな私の大の好物として不動の地位を築いていた。よって、もしもたまご焼き禁制の令なるものがしかれたならば、私は間違いなく気が触れるであろう。
そういうわけで私の乱定剣は不発に終わった。


「うっわ何、お前たまご焼きは手掴みで食べる主義なの?やめてくれる気持ち悪い、人外なのは顔だけにしてよ」と兵太夫は眉根を下げて嘲笑する。たったこれだけでも大変憎たらしいが、何よりも腹立たしいのは私がこいつに口では勝てないという確かな事実である。

「潰れたバッタって何度か見たことあるけど、緑の液体にまみれてすごく気持ち悪かったよ」
「そうですねわかります。しねばいいのに」
「誰が?お前が?それなら僕は三年前くらいからずーっと思ってるけど」
「しね」
「お前がな」

苦し紛れで投げた空の茶碗はいとも簡単にキャッチされた。正直割れなくてよかったと思う。だって学園の備品をくだらない喧嘩で破損したとあれば、いくらこいつが女の子の泣き顔を無残な虫の死骸に喩えるような人でなしであったとしても、怒られるのはまず間違いなく私だからだ。なんて不条理な世の中だろう。

「少なくとも私は緑の液体なんかにまみれてない」
「色が違うだけの話でしょ」

「まあとにかく自分で見てみなよ」とニタニタした意地の悪い笑みと共に差し出されたのは、片手に収まるほどの小さな手鏡だった。覗くと私の知らない私がこちらを見返していた。奴の言葉を借りるならば、なるほど破滅的だ。

「だいたいさあ何?馬鹿なの?普段の顔がただでさえアレなのに、泣き顔なんてより酷くなるに決まってるじゃん」
「おいちょっと、アレってどういうことだアレって」
「説明していいの?」
「いややっぱいいですすみません」
「まあ良く言って下の中かな」
「おおいいいやっぱいいって言ってんじゃん!エッ下の中なの?中の下くらいかと思ってたんだけど」
「うっわ自意識過剰(笑)」
「(笑)やめて胸が痛い」

二人きりの食堂に私たちの声はよく響いた。理由こそ知らないがあのおばちゃんすらいないのである。即ちここは、底意地がとんでもなく悪いくせにどこか品のある挑発的な笑みを浮かべて愉しそうに毒を吐く、この男の独壇場でしかなかった。もっともこいつが時と場所を選ぶかといえば、無論答は否であるが。

「ほんと馬鹿だねお前。僕だって然るべき時に然るべき場所ではちゃんと猫を被ってるよ」
「知ってる。この間くのたまの先輩が笹山くんカワイイよねって言ってた」
「お前もカワイイ僕に会いたい?」
「全力で遠慮しておきます」

遠慮なんてのくせに生意気だよ、と兵太夫は美しく顔を歪めた。私はというと、突きつけられた真実に目をつぶりたい一心で、少し乱暴に鏡を伏せた。
そうして私のことを可愛いと言ってくれたたった一人のことを考える。勿論本気になどしていなかったが、嬉しくなかったといえば嘘になる。しかしつい先程、私はよりにもよってその人の前で不覚にも涙してしまったわけで、そんな醜態を晒した今となってはそのたった一人も失ってしまったのかもしれない。今頃どうしているだろう。私の泣き顔など忘れてくれていればいいのに。



兵太夫は偉そうに頬杖をついた姿勢のまま、空っぽの茶碗に視線を向けて「そういえば、馬鹿が裏山で待ってるってさ」と、大層つまらない見世物を無理矢理見せられた後感想を求められたときのような、酷く渇いた声音で言った。テメーそれを早く言えよと思わないわけではないが、彼が食堂へやってきた当初と今とを比べればまだ今の方が泣き顔もマシになっていると思うので、口には出さないでおく。おそらく潰れたバッタは、羽をむしられた蛾くらいのレベルになっていることだろう。

さっさと行けば、とため息と共に吐き出された声は小さく、主の機嫌の悪さを伺わせた。
それにしても兵太夫が団蔵の頼みを聞いてやっているなど、一体団蔵はこの男に何を献上したというのか。考えてもどうせわからないことをただ巡らせるより、たぶん今頃私を泣かせた罪悪感でいっぱいになっているであろう団蔵に何と言って謝るかを考えればいいのに、私の脳は泣きたくなるくらい単純なようでもはや一方向にしか機能しなかった。「そう、ありがとう」と間の抜けた声が出たのはそのせいだ。
すると向かいから伸びてきた左手に右手を強く引かれた。 そのまま指先をぺろりと舐められる。舌が這う感触に肩が跳ねた。

「ほんと、お前らどっかいっちゃえばいいのに」

「甘、」と兵太夫は吐き捨てた。たまご焼きを手掴みで食べたからね、と返そうとしたのに、なぜか声が出なかった。
何の前触れもなく離された右手は重力に従って卓上に落ちる。ゴン、と乾いた音が響いた。文句を言おうにもやはり声は出ず、黙って食堂から出て行く兵太夫の背中がただ視界に映った。しばらく動けなかったのはたぶん、立ち去る間際に一瞬だけ見えたあの表情のせいだ。
気がつくとおばちゃんが帰ってきていて、あらちゃんまだいたの、と優しく微笑みかけてくれた。お茶が少し残っていたが、このままここにいるとまた考えてもどうせわからないことばかり考えてしまいそうで、そこから逃げられなくなってしまいそうな気がしたので、とりあえず曖昧に笑ってみせ勢いよく湯飲みを傾ける。
お茶を飲み干したらすぐにお盆を片付けて、全速力で走ろう。立ち止まっている暇などない。早く裏山に行かなくては。

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