「なんですかこれ」

意味がわかりません。そう言って日吉は顔をしかめた。なにこれって言われても、これはわたしがこの小さい頭を捻れるだけ捻って導き出したいわば努力の結果というものでつまりは数V問題集の問7の答えであるはずなんだけど、数学が破滅的に嫌いで苦手なこのわたしがやっとのことではじき出したその答えに大層な自信があるはずもなく、なにこれと言われてわたしは正直落ち込んだ。いくらなんでもこれは酷いと思う。わたしは頑張ったのだ。一度読んだだけでは何かの呪詛にしか思えない長い長い問題文を繰り返し読みやっと問題の意図を理解したは良いもののどうやってその解答を出せば良いかなんて到底わからない、というか正直言って式すらどうやって立てればいいのかわからないというある意味悲惨な状況でうんうん唸りながら頑張ったのだ。はっきり言えば、言ってしまえば、わたしにだって意味がわからない。どのような道をたどってこの解答にたどり着いたかなんて皆目検討がつかないし、問題を解くときに使ったメモ用紙を見直してみてもそこには3と5の見分けがつかないような汚い数学(わたしが書いた)が無数に並んでいるだけで、解決の糸口もまるで見当たらない。それでも、それでもわたしなりに頑張った結果なのだ。すこしくらい頑張ったねとかお疲れさまとか、優しい言葉くらいかけてくれてもいいんじゃないの?(たぶん)

「どうやったらそんな答えになるんですか」

先輩らしいですね。そう言って日吉は鼻で笑った。むかつく。2年のくせに3年の数学がわかってるところがさらにむかつく。だいたい日吉が何故こんな時間にわたしの部屋にいるのかといえば明日が数Vのテストであり同じく明日テストを控えている奴が「数学教えてあげますから英語教えてください」といつもの無愛想な感じで電話をかけてきたからなのである。だからこそわたしは快く日吉を部屋に招き入れたのだ。時計の針はすでに夜の10時すぎを指していたけれどわたしと日吉は中学時代から付き合いのある部活の先輩後輩なので何か間違いが起こるなんて思えなかったし、何よりわたしは本当に本当に数Vが苦手だったので、数学が得意だと言う彼を喜んで迎えいれた。という訳で、日吉が今すべきことといったら目の前で困り果てている可哀想な先輩に問7の解き方を優しく諭してあげる以外の何者でもないはずなのに、当の本人はといえば泣き出しそうなわたしを無視して英語の問題集をすらすらと解いていて、時折わたしの入れたコーヒーを優雅に飲んでいた。ほんっとにむかつく。

「ちょっと、日吉」
「なんですか」
「なんですかじゃないよ。数学教えてくれる約束でしょ?」

そう言いながらテーブルの下に足を伸ばしてあぐらをかいている日吉の足をつんつんとつつくと、「やめてくださいね」とまるで小さい子供に言い聞かせるような物言いで軽く流される。その見下した口調がさらにわたしを不機嫌にさせた。「ねえ聞いてる?数学教えてよ」苛立ちを露にしたわたしがそう訴えても相変わらず日吉の目線は卓上の問題集に向けられていて、わたしになんて興味なしという風なその態度にますます苛立ちがつのる。これじゃあまるで話が違う。日吉がここにいる理由はたったひとつ、わたしに数学を教えることなのに。わたしが数学を超がつくほど苦手としているというのは付き合いの長い日吉なら当然理解しているはずで、理解しているからこそ今日わたしに数学を教えにきてくれたんじゃないの?職務をまっとうしたまえよ日吉くん。そんな中日吉はまたコーヒーを啜った。くっそ。今は何を言っても聞き入れてくれそうにないくらい黙々と問題集を解く日吉を、今度はおとなしく座ったまま凝視してみる。…ばかやろう!とうとう頭に来たわたしは、颯爽と立ち上がって座っている日吉の後ろに位置しているベッドへダイブした。ふかふかした感触に思わず力が緩む。わたしの言うことに耳を貸そうとしない日吉に苛立ったのもあるけれど、正直、もう限界だった。テスト前だからといってだいっきらいな数学を長時間頑張る気はもともとそんなになかったのだ。日吉が教えてくれるっていうから少しは頑張ろうと思ったのに。肝心の日吉といえばわたしになんて目もくれず、英語の問題集をすらすらとそれはもう腹が立つくらいにすらすらと解いている。…え、すらすらと?すらすらと、って、

「…先輩」

そこで、日吉が動かしていた右手を止めて後ろを振り返った。ベッドに寝転がっているわたしと向き合う形になる。視線を交わしながら、ふと、わたしはあることに気付いた。電話で日吉は、数学を教える代わりに英語を教えろと言った。それはきっと日吉が英語を苦手としているから、わたしに数学を教える交換条件として英語を教えろということなんだろう。だけどわたしは、これまで一度たりとも、日吉が英語を苦手だという話を聞いたことがない。そうだ。というかそもそも、わたしは英語が得意ではない。数学ほど苦手ではないけれど、決して得意といえるほどの成績をとったことなんてないということを付き合いの長い日吉はよく知っているはずだ。たとえわからないことがあったとしてもたかが一年多く英語を学んでいるだけのわたしに教わるくらいなら長太郎か樺地にでも聞きに行くだろう。日吉はそういうやつだ。じゃあ、なんで?日吉はわたしに数学を教えにきたわけではなく、英語を教わりにきたわけでもない。こんな時間に、日吉がわたしの部屋にくる理由は、

「俺は」

ぎし、とベッドのスプリングが歪む音がした。日吉がわたしの身体を挟むように両手両膝をベッドについからだ。いつになく真剣な顔がわたしを見下ろしている。わたしはといえば突然のことに何も言えず、ただ上にある日吉の顔をぽかんと見つめていた。


先輩を落としにきたんです」






覚ます


(初めてのキスはコーヒーの味がしました)