先輩、と呼んだとき振り返ってくれる人が、とうとう一人になってしまった。

怒ったように眉間に皺を寄せた仏頂面をくるりと回し、何だ、と無言で問いをくれる視線が優しいあの先輩も、「どうしたの?ちゃん」と春のように微笑みかけてくれる穏やかで温厚なあの先輩も、今はもういない。その代わりに小さな影がいくつか増えて、私自身が先輩と呼ばれることが多くなった。図書室に響く私の「先輩」という声に振り向いてくれるのは、今となってはこの、几帳面で口うるさい先輩ただ一人だ。

「おい
「なんでしょう、能勢久作先輩」
「その几帳面で口うるさい先輩ってのは、もしかして俺のことか」
「もしかしてもしかしなくても先輩のことですが、何か」
「し、図書室では静かに」
「…先輩から話しかけたくせに」
「うるさい」

別に、それほど大声というわけじゃない。それなりに潜んだ声。それでも二人きりの図書室にはよく響いた。
本を整理して棚に戻す作業というのは実に単調である。調本より面倒くさくはないけれど、とても退屈だ。ぴんと伸ばされた背筋と棚に向けられるまっすぐな横顔をちらりと見ると、「作業に集中しろ」とこちらも見ずに言われる。ピシャリ。そんな感じだ。

「先輩、ちょっと休憩しません?」
「しない」
「そうですか。じゃあ私はします」
「あと少しなんだからもうすぐ終わるだろ。おい、、座るな」
「(ちぇっ)はーい」

しぶしぶ立ち上がる私を横目で見て、先輩はふうとため息を吐いた。
これだからA型は、とこぼすとすかさず「お前もA型だろ」と返される。言葉遣いこそ美しくはないが、私はこの人ほど優秀で几帳面で真面目で神経質で口うるさい人を、他には知らない。血液型占いなんて当てにならないと思っていたけど、この人の場合すこし典型的すぎるのだ。A型の申し子か何かなのか。「俺に言わせれば、お前がA型っていう事実が何よりの驚きだよ。なんだこの調本。はいやり直し」とは、いつかの先輩の弁である。ズイ、とつっかえされた本をしかめっ面で受け取ったものの、私もその点に関して異を唱えるつもりは微塵もなかったので、黙って頷いておいた。やっぱり占いなんてろくなもんじゃない。

「そういえばお前、泣いたらしいな」
「は?」
「不破先輩が卒業された日」
「…いけませんか」
「別に。いけなくはないけど。意外だと思って」
「そうですか、というかなんで知ってるんですか」
「きり丸に聞いた」
「(アイツ)」

あとできり丸をどうしてやろうかと、悶々と考えこんでいたせいだろう。 「おい、そこ巻数が逆だ」、という先輩の低い声にはっとした。それなのに、相変わらず先輩はこちらを見ない。黙々と本を棚に戻し続けているくせに、なぜこんな些細なミスを見落とさないのだろう。まったく男のくせにそんな細かいとモテませんよとでも言ってやろうと思ったが、忍者としては別に構わないしむしろ利点であるのだろう、と思い直して口をつぐんだ。むしろ、そんなことを考えている私の方が駄目である。女のくせに素直ではないし、可愛げもない。しかも私の場合、それは「女」を武器にするくのいちとしても致命的なのだ。まったく先が思いやられる、といつか誰かに言われた。

「でもまあ、寂しいよな」
「え?」
「不破先輩。お前、懐いてたもんな」

先輩がいきなり話を戻すので、一瞬何のことだかわからなかった。
けれどすぐ後に聞こえてきた名前に、あの人の顔を思い出す。浮かべた表情はやはり笑顔だった。あの人はいつだってそうだった。とてもあたたかで、花が咲いたような、晴れやかで優しい微笑みだった。あの人はいつもそれを顔中に浮かべながら、「ちゃん」と穏やかに私の名前を紡ぐのだ。図書室を出たあの人の隣にはいつだってあの人と同じ顔をした先輩がいたけれど、少し言葉をかわせば見分けなんてすぐについた。私の胸にほっと安心させてくれるようなあたたかさを落とすのは、いつだって雷蔵先輩、あの人だったから。

あの人のいなくなった図書室は少しくたびれて見えた。物悲しい秋の夕暮れのようだった。同じ学年の怪士丸が纏う影はさらに濃くなって、少しひねたきり丸はあまり笑わなくなって、能勢先輩はますます厳しくなった。
私はというと、中在家先輩が卒業されたときもしばらくはこんな感じだったなあ、とぼんやり状況を眺めている。 時折本棚のすき間にあの人の笑顔を探してしまうことには、気付かないふりをして。

「正直なところ、俺だって寂しいよ」
「…能勢先輩が?」
「まあな。図書委員会は5、6年がいないから、4年の俺がもう委員長代理だし」
「そうですね」
「それなりにプレッシャーもあるんだ、実は」
「…はあ」
「今年もいれて、卒業まであと3年かあ」

それまでよろしくな、
やっとこちらを向いた能勢先輩は、穏やかな口調でやんわりと笑った。それから、ぽんぽん、と私の頭を軽く叩いた。ぽんぽん。それは、几帳面で口うるさいけれど面倒見がよくて、なんだかんだ優しいこの先輩が、ときどき私にしてくれる仕草だった。とてもあたたかくて、甘美で、私にとってはご褒美のようなものだった。

「俺これから授業だから、あと頼んだぞ」と言って図書室を出て行く背中を見つめながら、ぼうっと考える。
あの人の背中はあんなに広かっただろうか。4年生になった能勢先輩は、昔よりもずっと背が伸びた。声も数段低くなり、私の頭に触れる手のひらも随分大きくなった。でもそのあたたかさは、それだけはずっと変わらないのだ。

3年後、きっと私は今と同じ思いをするのだろう。卒業の日には泣くのだろう。もう振り返ってくれる人がいなくなった図書室に向かってひとり、先輩、と呼びかけてみたりするのだろう。

あなたのしてくれる "これ "は、あの人の笑顔と同じなんです。あったかいんです。

あと3年したら、学園を去っていく先輩の背中に向かってこんなことが言えたらいいのに。
女のくせに素直でもなく可愛げもない私にとっては、少し難しいかもしれないなあと、古い本棚を見上げながら思う。


拝啓、
(文でも書こうかな)       、