今の状況を説明しようか。
場所は氷帝学園、さらに細かくいうならばその保健室、のとあるベッドの一角。周りにはカーテンが引かれているのでまあ密室といえば密室、保険医はいない。教室では1限の授業が行われている最中だろう。そしてそのベッドの上でこめかみをひきつらせて怒りの形相をしているのはさっきまですやすやとお眠りになっていたかの有名な跡部景吾であり、その脇で安物のデジタルカメラを構えたまま固まっているのは庶民もど庶民なわたしである。
おわかりだろうか?わたしは今、生命の危機に直面している。

「てめえ…」
「ああああああとべこれは誤解です誤解なんですよあのですねその」
「いいから、そこになおれ」

冷や汗を滲ませるわたしをよそに、跡部がその長い指をぴっと伸ばして示したのは保健室の白く冷たい床であった。
あれか?ここになおれと?ここに正座しろってか?

「わかってんならとっととしやがれ」

はいそうですねすいません正座でもなんでもしてやるよ!!!







「最悪だな、お前」
「はあ…」
「その上とんでもない馬鹿だな。あれで気づかれないとでも思ったのか?」
「へえ…」
「まったく、俺様の寝顔をこそこそ盗撮しようなんざ、命が惜しくないとしか思えねえ」
「いやあそんな大げさな…盗撮じゃなくって隠し撮りっていうか」
「あーん?隠し撮りを盗撮って言うんだよ、やっぱり馬鹿だなお前」
「な…(ぷっちーん!)だだだってしょうがないでしょ!?わたしの進級がかかってんだもん(あっやべっ)」
「進級?」
「あっいやっなんでもないです、そうではなくて、友達に頼まれて…」
「てめえ、正直に言わねえと舌ぬくぞ」
「! おおお横暴だ脅しだ犯罪だ!」
「なんとでも言え。で?なんだ。進級?」
「ししししししん、どうさんが…」
「新藤?」
「新藤さんが…跡部のファンで…」
「誰だよ新藤って」
「新藤さんは…うちのクラスの…」
「(はあ)…もういいから、さっさとほんとのこと言え」
「怒んない?」
「ああ(たぶん)」


床は冷たかった。跡部も冷たかった。だから本当のことを言うのは憚られた。新藤さんなんて架空の人物をどう動かそうか考えを廻らせるも、まともなアイディアが浮かぶ気もまるでしなかった。しかしだからといってこのまま氷の世界(あらゆる意味で)にとどまり続けるわけにもいかず、ましてや逃走するわけにもいかない。ここは腹をくくるしかないのだろうか。はあ、いやだもうどこかに消えてしまいたい。


「実は先生に、跡部の寝顔の写真撮ったら単位くれるって言われまして」
「ハア?誰だそのアホ教師」
「英語の長谷川」
「あいつか…しょうもねえな」
「ね!だからあのおばさん三十路越えてもまだ独身なんだね!」
「で、お前はそのおばさんの話に乗ったと」
「………」
「お前もそのおばさんも同罪だな」
「だってさ、進級がかかってるんだよ?やるしかないじゃん!」


前言通り、跡部は確かに怒りはしなかったが、終始呆れた顔をしていて、わたしの熱弁も意味をなしている気はまるでしなかった。ところで、再び今の状況を整理してみると、簡潔にいえば、床に正座するわたし(冷たい)、白いふかふかのベッドの上で偉そうに腕を組む跡部(なかば呆れ顔)、というおかしな構図である。普通の中学校では、保健室のベッドなんてものは固くて狭くて黄ばんでいて…寝心地なんかそりゃあもう、むしろ寝れたもんじゃない、という話をよく聞くが、そこはこの氷帝学園、ふかふかじゃないベッドなんてベッドがベッドのベッドたるベッド…まあ要するに、氷帝の保健室はとても居心地がよいのである。まったくこの成金学園め。


「それともわたしが進級できなくてもいいっていうの?」
「ああ、そうなったらせいせいするな」
「うそだーもしそうなったらさみしがるくせにー」
「言ってろ」
「まったく跡部ってば、素直じゃないんだから」
「お前こそ、自分ひとりだけ置いてけぼりくらったらうるせえくせに」
「なっ!そんなことないよ、2年になったら長太郎も日吉も樺地だっているもん」
「お前しらねえのか?留年した生徒は特別クラスになるからあいつらと同じクラスなんて絶対無理だぜ」
「うそ!?(がーん)」


とうとう状況が絶望的になってきたところで、わたしの両足の温度もおかしくなってきていた。何度も言うが床は冷たい。その上そろそろ足が限界を迎えてびりびり痺れてきたので、とりあえず正座から胡坐に切り替えた。もちろんスカートで。すると平手でスパンと殴られる。「いった!!」理不尽な仕打ちに抗議しようと口を尖らせるも、見上げた跡部の目はもうなんていうか、呆れを通りこして疲れた顔をしていた。そんな顔しないでよ、しょうがないじゃん、床つめたいんだよ!!


「つーかお前3年なんだから、進級じゃねえだろ」
「は?なにが?」
「(…)お前マジで馬鹿じゃねえの?かかってんのはお前の卒業だ」
「えええ!?うそ!卒業!?」
「あーあ、お前このままじゃ来年も中3だな」
「っぎゃー!!ままままじでか!わたっ、わたし高校生になれないの!?」
「かもしれねえな」
「跡部様どうかお願いしますもう一度眠りについてください。できれば永遠の」
「よし。殺す」
「ギャアアうそだってば!!!写真!写真とらして!!」





そんなこんなで、わたしがうるさかったせいか跡部がうるさかったせいか(おそらく前者)、職員会議から戻ってきた保健室の先生にわたしはこっぴどく叱られて、さっさと保健室から追い出されてしまった。自分も帰ろうと思ったんだろう、わたしの後を追おうとした跡部の腕をつかんで、艶かしく微笑む綺麗な先生(女。20代後半)。跡部くんは具合悪そうだからこのままここにいなさい、だとよ。背後でぴしゃりとドアの閉められる音がした。

ええーいなんでわたしだけ怒られなくちゃいけないの?なんでわたしだけ追い出されるの?なんでわたしだけ高等部に行けないの?そんなのってない!
(だいたい跡部は仮病ですよ!ねみぃから保健室行くって言ってんだもんあいつ!!)

ああ、なんだか泣けてきた。
この状況のなにもかもが最悪だ。まあ元はといえばわたしが悪いことに違いはないんだろうけど。

ぶつくさ文句を言いながら廊下をずんずん歩いていくと、背後からガラガラとドアの開く音がした。ついでにわたしの名前を呼ぶ声も聞こえた。
、」心地よい低音は静かに反響する。振り向くと、保健室から出てきた跡部が見えた。


「おい、待てよ」
「跡部、具合悪いんでしょ?寝てれば?」
「別に悪くねえよ。知ってんだろ」
「ふん」
「(はあ)まったく…ガキかよてめえは」
「そうだよどうせガキだよ、どうせ来年もまだ義務教育だよ」
「ああ、そうだったな、お前来年も中学生だっけ」
「…」
「…おい。なに泣いてんだ。冗談だろ」
「泣いてない」
「嘘つけ」
「泣いてないよ!跡部の目の錯覚だよ!」
「いや泣いてる」
「泣いてないってば!ちょっと悲しくなっただけ!」
「なんでだよ」
「だって、だって…わたしこのままだと、ほんとにほんとに、卒業できない…」
「お前、そんなにテストできなかったのか?」
「えいご…名前書き忘れて…」
「はあ?お前…どんだけ馬鹿なんだ」
「はいはいどうせ馬鹿ですよ…」
「…ったく、しょうがねえな」


呆れたようにため息をつく跡部は、やっぱり廊下に立っているだけで、どこぞの王様のように偉そうだった。そんでもってやっぱり格好良かった。緩められたネクタイとすこし乱れたシャツからはさっきの保健室の先生なんて目じゃないくらい、大量の色気がむんむんと放出されているような気もする。もはや垂れ流し状態。色気垂れ流し。本当にどこかの王様なのかもしれない、とまで思わせるその男は、わたしの手から安っぽいデジカメを乱暴にひったくり、レンズを自分の顔へと向けた。

ほんの一瞬、あたりを一瞬白い光が支配する。


「寝顔じゃねえけどよ、たぶん大丈夫だろ」
「…え」
「カメラ目線つーの?それだし」
「おおお…!」
「さっさと現像して長谷川んとこ持ってけ」
「あ、跡部、」
「んだよ」
「ほんとにいいの?」
「…案外、お前の言った通りだからな。いいんだよ」
「うわー、跡部、ありがとう…!」
「じゃ、ついでにお前とも撮っといてやるよ。記念だ」
「え?うわっ」


すこし強引に右腕をひかれて、すぽっと跡部の肩の内に収まった。抱かれた二の腕の太さを気にする余裕などまるでなく、そのままぐっと引き寄せられる。正面の、跡部の右腕の先にあるレンズが黒く光って見えた。そしてそれはすぐにまた白く光る。
目がちかちかした。頭もちかちかした。すぐ近くで跡部のにおいがしてくらくらした。そんなわたしをよそに、ほらよ、と跡部がデジカメを放り投げる。ふがいないわたしは、去っていく跡部の背中ただ呆けて見つめることしかできない。

呆然としながらぴぴぴとデジカメをいじると、画面にさっきの写真が浮かび上がった。跡部の仏頂面、のあとに、わたしの肩を抱いた跡部が不適な笑みを浮かべる一枚。それをただ眺めながら、先ほど跡部が言った言葉の意味を考えた。案外お前の言った通りだからな、って、なにそれ。さみしいの?あの跡部が、わたしが留年したらさみしいの?

慣れない操作をなんとかこなして、その写真にプロテクトをかけた。とりあえずはやく学校を早退して、お店に現像しにいこう。それで明日になったらもう一度跡部にお礼を言って、「わたしも跡部がいなかったらさみしいよ」って言ってみよう。いったい跡部はどんな顔をするのだろうか。照れるのかな。怒るのかな。たぶん照れながら怒るんだろうな。
下駄箱に向かいながらそんなことを考えていたせいか、途中で2回もずっこけた。とても痛かった。でも涙は出なかった。


ノット・オンリー