「柳誕生日おめでとう」
「ありがとう。ところで今日は8月6日だがその点についてお前の考えを聞かせてもらいたい」
「夏は暑いなあと思ってる」
「それだけか」
「それだけです」

ハー暑い暑い。こういうときはこういう態度を突き通すのが勝ちだと思っているわたしは何とも言えない微妙な顔つきでこちらを見ている柳を横目でチラリと伺いながらさっき道端でもらった広告付きのうちわをパタパタと動かしてなまぬるい風を生み出した。ハー暑い暑い。けれどもこんなんじゃちっとも涼しくなんかならない。かき氷とか食べたい。

「誕生日祝いになんかおごってあげるね。何がいい?」
「ふむ、神楽坂の料亭でフグでも食べたいな」
「わかったブルーハワイね。コンビニ行こう」
「いやコンビニにブルーハワイは売ってないだろ。イチゴとレモンくらいだろ」
「残念でしたメロンもありますうー」
「じゃあレモンにする」
「じゃあの意味がわかんねーよわたししろくまにする。じゃあ柳おごってね」
「お前のじゃあが一番わからん」

ジリジリジリジリ。道端で顔を突き合わせて言葉を投げ合うわたしたちの頭上に夏の太陽が容赦なく照りつける。そしてまるで会話に呼応するかのようにミンミンゼミがけたたましく鳴く。ミーンミーン。そのうちその中にひとつどうにもおかしい鳴き声が聞こえてきて、どうした新しい派閥のミンミンゼミでも誕生したのかとひとり脳内でふざけていると柳がぽつり「ツクツクホーシが鳴いてるな」と事も無げにつぶやいた。うそこれが?噂のツクツクホーシ?

「うそ全然つくつくほーしって鳴いてないよ」
「鳴いてると思って聞けば鳴いてるさ」
「うーん。まあ聞こえないこともない」
「だろう」
「初めて聞いたなあツクツクホーシの声」
「何を言ってる。去年も一昨年も鳴いてたぞ」
「えっ知らない」
「おおかた気づいてないか忘れてしまっただけだろう。まるで俺の誕生日のように」
「…そういう突然アッパーくらわしてくるとこ、嫌い」

ハハ、悪いな。視線をとがらせるわたしに柳はさらりと言う。その声音は露ほども悪びれていないもんだからまた腹が立つ。勝ちが優勢かのように見えたこの情勢は奴の一言で一気に傾くこととなった。まあそもそも勝てるとはあまり思っていなかったし普通に考えたらわたしの負けなのだけれどというかそもそもこの場合の勝ち負けとはなんぞや。ちっともわからない。たった一言、誕生日すっかり忘れていましたごめんなさいとでも言えば丸く収まりそうなのに、その一言がどうにも言えないのがわたしだった。逆にこんなことが素直に言えたらそれはもうわたしじゃない。ほら。言い訳ならスラスラと出てくる。

「だいたいわたしが忘れてるって知ってたんなら教えてくれればいいじゃん、二か月も放置しないでよ」
「やっぱり忘れてたのか。それも二か月も」
「…」
「しかし暑いな」

柳がサラサラと髪を揺らして天を仰ぐ。その頬をツウと汗がつたっていく。日に焼けて赤くなった頬は少し痛そうだった。ちゃんと日焼け止めを塗ったのかと聞けば柳は無言で首をちいさく振る。コイツ。気が遠くなるほどクソ暑い真夏ですら長袖ジャージを着て部活するぐらい異常に日差しに弱いくせになんでそういうことを怠るかなコイツはほんとに。柳曰くあの独特の匂いを好まないらしいが、知るかそんなの。わたしは自分のバッグからこの前買ったオレンジのアネッサを取り出してジャカジャカと振ると白い液体をチュウっと出して柳の顔面にぬりたくった。目をぎゅっとつぶった柳が若干迷惑そうな顔をしているのは気のせいじゃないと思うけどそんなの無視する。それでもわたしが塗りやすいように腰を折ってくれるのはなぜだろう。柳の優しさだろうか。弱弱しく「ありがとう」という柳がなんだかすごく、なんだ、その、かわいく見えて、姿の見えない何かに心臓をギュっとつかまれる。でもやっぱりフグは無理かもしれない。

「美味しいお蕎麦でもごちそうするね」

少し不思議そうに首を傾けた柳に「来年の6月4日の話」と言えば彼の閉じられた口はすっと美しく弧を描いた。そうして切れ長の細い目がゆるゆるとたゆんだ。「仕方ない、今年はレモンのかき氷で我慢しよう」と笑う柳の顔がキラキラと幸せそうに輝いて見えるのはオレンジのアネッサがパール入りだったからに他ならないはずなのに、なんだかそれだけじゃないように見えたのはわたしの自惚れじゃないといい。

ラバーソールの靴底のよう