あたりまえだけど念じるだけじゃ人は殺せない。世の中には牛の刻参りだとか黒魔術だとかそういういわば呪いのような非科学的で非論理的なことを真剣に考え実践している人たちが存在しているのは知っているけれど、わたしはそんなことをしている暇があったら美味しいお茶を入れて美味しいお団子を食べて「あんな男くじらに飲み込まれてしんじゃえ」と小石を蹴っ飛ばせればそれでいい。それでいいのだ。

「随分なことを言うね、君は」
「昨日はくじらじゃなくて狼だったの。だから今日はいい方」
「確かに狼に食い殺されるのは遠慮願いたいな」
「くじらはいいの?」
「そっちは少し想像に難いから」

サラリ、嫌味な前髪が風に揺れた。小石はコロコロと思ったよりも遠くへ転がり何の因果か突然現れた男の足元で静止した。「ただいま、」と穏やかな声が響く。少し迷った末に顔をあげると昨日までの雨天が嘘のように晴れ上がった空がなんとも憎らしく、強い日差しに目を細めると男は「睨むなよ」と困ったように眉根を下げた。

「別にあんたを睨んだわけじゃないんだけど」
「ああそう。それは残念」

ふっと笑って肩をすくめる。スマートに決めているつもりなのか何なのか。
この男が何の前触れもなく突然現れるのも、涼しい顔で「久しぶり」も「待たせたね」も「会いたかったよ」もなしにそれどころか何の挨拶もなしにいきなりこんな軽口を叩くのも、すべてはいつもと同じことだった。そしてわたしがそれに愛想なく応えるのもいつものことだった。利吉の性格は決してよろしいとはいえないけれど、わたしも大概ひねくれている。そこはまあ、否定しない。

「何、睨まれたかったの?」
「そうだな、できれば笑ってほしいかな」
「冗談」

ふん、と鼻で笑ってからもう冷めてしまったお茶をすする。打ち寄せる自己嫌悪の波には気づかないふりをして、そのまま手つかずだったお団子に手を伸ばす。相変わらずみたらしが好きだね、と振ってきた声はなんだか楽しそうで、なにもかもが見透かされているようで、無性に苛々した。

「髪型変えたんだ。似合ってるよ」
「別に変えてない。ただ伸びただけです」
「はは、そこは素直に礼を言えばいいだろ」
「何がおかしいの?」
「あれ、わからない?」
「全然」

もう何日になるだろうとか、そんなことを指折り数えるのはとっくの昔にやめた。別に一度や二度のことでもないし、どうせいつも指は足りないのだ。もう感傷に浸ることもなければ感傷に浸る自分に酔うこともない。つらいとかさみしいとかかなしいとか、このどろっとした感情に大層な名前をつけて大事に大事にしていても有益なことなど何一つだってないのである。
とまあこんなふうに、慣れたふりだけは異常に上手くなってしまった。それはもう可愛げがないほどに。

だから待たされるたびに決意することがある。今度こそ突き放してやろうとそう思う。生憎わたしはいつ帰るかもわからない恋人を健気に待っていられるほど慎ましやかな女ではないし、いつ死ぬかもわからない危険極まりない仕事に中毒状態の男を両腕を広げて出迎えられるほど心の広い女でもないのだ。
だから「ただいま」なんて、別にあんたの家じゃあないのよ。

「ところで」

まさに砂の牙城のようだ。そんな決意だ。少しずつ高く積み上がって築かれた城は、ほんの些細なことで脆くも崩れ去ってしまう。そうとわかっていてもなかなか岩石の城を作れないのは、いわゆる惚れた弱みというやつで。

「そろそろ名前を呼んでくれよ」

少し情けなく眉根を下げてらしくなく笑う彼と目が合ってしまえば、それでもう、おしまいなのだ。


花 結 び